⑧興南監獄の受難 (1948.2.22~1950.10.14)
■平壌での三ヵ月受難と興南移送(1948.2.22~5.20)
・(北韓で)三度目の投獄、「平壌内務署」拘束(1948年2月22日、日曜日午前10時)
・当時、北韓政府の政策は、すべての宗教を抹殺することでした。
・既成教会の牧師たちは、彼らの教会の多くの信徒たちが先生の所に来たために、先生を告発しました。
・南韓のスパイとして追い込まれ、李承晩政権の手先だとか、「北側政権を略奪するためのスパイだ」など、あらゆることを言われました。
・先生は監獄に入ったその日、腕に手錠をはめられながら、「これは神様が私を愛されているというラベルを貼られることだ」と考えました。
・結局、世界的な荒野に追われました。4300年の歴史を、43年で再蕩減しなけれぱならない、つらく悔しい事実……。
・国と世界の版図を、神様が6000年間苦労して残した功績をすべて失って、興南収容所を訪ねていきました。
・天と地の未来の希望としての解放の民族が、先生を歓迎しようとしたその群れが、雲の中の地獄に消えていき、暗黒の世界に消えていくのを見ながら、痛哭して、再び会おうと叫んだのです。
・「お前たちは消えていったが、私は再び私の行くべき道を行き、そして、光明なる朝日を抱いて、お前たちを訪ねて行き、再び解放を与えよう!」と宣言しました。
■過酷な拷問、取り調べ
・私は血を吐く拷問の場で、何度も倒れながら、意識をすべて失ってしまう場でも、「お父様、私をどうぞ救ってください」とは祈祷しませんでした。「お父様、心配しないでください。いまだに死にません。あなたに約束した志操が、そして責任をもつべき使命が私にはあります。同情を受ける時ではありません」このような祈祷をしました。
・拷問を受けて倒れるその瞬間が、神様の声を聞ける瞬間であり、今にも息が絶えそうなその場が、神様に会える場なのです。
・私がむちで打たれるのは、私のために打たれるのではなく、民族のために打たれるのであり、私が流す涙は、この民族の痛みを身代わりした蕩減の涙だったのです。
・服を脱げば、この道に乗り出してきて生じた傷跡が、何箇所もあるのです。それを眺める時、この傷跡は人類と天が私に与えた勲章であると思うのです。「お前、その時に決意したことを、お前が死ぬ時まで命をかけて行くと言ったその誓いを、忘れてしまったのか」と。その傷跡を見るたびに、朝、昼、晩、眺めながら誓うのです。「この傷をもったお前は勝利しなければならない!」、「勝利しろ」と激励するのです。
■興南特別労務者収容所強制労働(1948.6.21~1950.10.14)
・先生は北韓の共産党の監獄に入っていき、2年8ヵ月の間、肥料工場で重労働をしました。
・金日成はソ連の経験を見本にして、すべての囚人を3年の間強制労働に動員し、彼らを死ぬまでそのままにしておきました。
・一組10人の一日の責任量は1300かますであって、8時間以内に終えなければ、食糧が半分に減るようになっていました。
一般社会の人は、70個、80個もできないのに、「倍の基準でしろ」と言うので、それは「死ね」と言うことと同じなのです。
・体は硫酸で害を受けます。髪の毛が抜け、皮膚を絞ってみれば水が出てきます。6ヵ月が過ぎると、必ず喀血します。大概、肺病だと思って落胆するので、死んでしまいます。せいぜい1年半か2年しか耐えられません。肉が全部裂けて、骨が見えるほどになり、血が出るのです。朝には、血がぽたぽた流れ、皮膚が裂けるのです。
・先生は、そのような仕事をするために生まれたのだと考えました。先生は常に、あたかも復帰摂理をするかのように、すべての心情とすべての誠意を、その仕事に注ぎました。
・暑い所でも私は下半身が見えないようにしました。貞操を守る女性以上の訓練をしてきました。女だけに貞操があるのではありません。男にもあるのです。
・数ヵ月後、先生は最高の労働者と称されました。責任量を果たせなかったことがありませんでした。監獄に入った人として、所長からも特別接待を受けました。話はしなかったのですが、皆が仰ぎ見たのです。
■残酷な飢え
・一日にくれる御飯は、小さな茶わんで1.7杯ぐらい。おかずは何もなくて、汁は大根の葉を入れた塩水。それを食べて8時間労働をするのです。食べるものが少なくて、大きい口なら三口で終わってしまいます。
・御飯を自分の口の中にほうり込んだところ、のどが詰まってすぐに死んでしまった人もたくさんいました。一人の囚人が、自分の御飯を全部食べる前に死ぬと、他の人々が、その死んだ人の口から御飯粒を取り出して食べるために争います。
・御飯一粒、米一粒が落ちると、互いに拾って食べようとします。蝿がつき、うじ虫がついても、そのようなことは考えにもありません。そのような死の谷間です。
・1年も経てば、1000名のうち、40パーセント以上が死んでいったのです。ですから、毎日葬式を執り行うのです。毎日、裏口から棺が出ていくのを見なければならないのです。
・3年ないし4年経てばみな死ぬのです。死ぬ時までこき使おうという政策を用いてくるのです。無慈悲にも、冷酷なことにも、限界線があるのです。ところがこれは、限界線を越えに越えていたのです。
・先生が監獄生活をする時、社会的な名士とか、宗教的な代表者だとかいう人たちと一緒に生活してみたが、その人たちは、みなパンのために生きる人たちです。
有名な牧師なが「腹が減ったその場で、いくら神様を探し求めても神様はいる感じがしない。影さえも現れない。神様は降参をしたのか。神様は逃げたのだ」と言い、唯物論者になってしまいました。
ある地方で有名な牧師が、彼の婿と一緒に監獄に入ってきたが、その婿がマラリアを患うようになりました。その牧師は、マラリアの薬を持っていても与えず、はったい粉と交換してしまいました。
■三週間の半分の食事
・先生は他の人たちに先生の食事の半分を与えました。それを三週間続けました。先生は「半分の食事を食べても、作業量を完遂できる」と確信するようになりました。
・その時から先生は、先生に分け与えられた食事をすべて食べるようにしました。そして「先生の食事は半分で、残りの半分は神様によって与えられたおまけだ」と考えました。
・ひもじい時の御飯一粒がどれほど貴いものか、御飯一粒がそれほどまで全神経を刺激できるのかということ感じ、それに対する無限の価値を感じることができました。
・腹が減って、御飯を恋しがりつつも、それを忘れようと努めながら、神様をより一層恋しがろうと、涙を流しました。
・腹が膨れている時は世界が大きいと思ったのですが、腹が減っている時には、御飯一粒が地球数個よりずっと大きいのです。
・1ヵ月に1度ずつ、はったい粉を受け取って食べました。皆に分けてあげました。絶対一人では食べませんでした。
・先生は常に一番古い服を着ていました。良いものは他人に与え、擦り切れれば竹で針を作って縫って着ました。
■収容所の受刑生活
・先生は興南監獄で3年近い歳月を送りましたが、何人かの食口たちのための祈祷は、1日に3度ずつ、毎回してあげなかったことがありませんでした。
・困難になる時は、絶対に祈祷しませんでした。1週間でも1ヵ月でも話をしませんでした。
難しければ難しいほど、「私の最高の知恵を尽くして、精誠を込めて、どのようにこの困難な環境を、神様が私によって溶かし出すことができる道を模索するか」と考えました。
・先生が暮らしていた部屋には、36人が住んでいました。先生はそこの一番暑い所、一番においのする、最低の場所、糞尿桶の隣で過ごしました。それでも、「ちょうど良かった。将来、我が身を輝かせることができる、人類歴史を導くことができる、良い機会が今ではないか」と、考えました。
・獄中で水をくれると、小さな湯飲みに3分の1にしかなりません。その水を飲まずに、手ぬぐいに浸して、体をふくのです。
・監房において、約10分ないし15分前に1人で起きて冷水浴をするのです。さらに自分の体力を保持するためには運動をしなくてはなりません。
・どこかに座る時は、体を汚さないように必ず聖別して座り、立ち上がる時は、必ず聖別して立ち上がったりしたのです。・友達がたくさんいました。しらみの友達。それから、のみの友達、南京虫の友達、蚊の友達、はえの友達。これらを捕まえておいて、運動させる。
・その中で最も難しかったのは、毎日感想文を書けということでした。先生は書きませんでした。しかし仕事においては、成すべきことはしていたので、いつも白紙で出しても問題になりませんでした。それで一等労働者にならなければならなかったのです。生き残る方法は、それしかありませんでした。
■忠母様の面会
・千里の道を訪ねてきた母を面前に置いて、鉄格子の中から秋霜烈日のごとくに怒鳴りつける時、恥ずかしさで「私がお前の母だ」と言って、ただ口をぶるぶる震わせながら、涙を手でぬぐって背を向けた母が、私は忘れられません。
・その時母に向かって「私は金なにがしの息子である前に、大韓民国の息子であり、世界の息子であり、天と地の息子です。彼らを愛してから母の話を聞き、母を愛すべき道理を知っています。そのような小心者の息子ではないことを知って、その息子にふさわしい母の行いをしてください。」と攻撃をしました。
・約20時間も汽車に乗って来なければならないのです。それでも「息子だ」といって忘れられず、共産党治下の貧しい北側で、はったい粉を作るために、姻戚の8親等の家まで行って、米を一握りずつ借りて一生懸命に来たのに、その場で全部広げて分けてあげたのです。面会する場でそうしたのです。
・私が結婚する時に着た絹織りのズボンのようなものを持って来てくれると、それを全部分けてあげました。そうして私は、ほとんど擦り切れて足の肌が見える合い着を着ているのです。下着のようなものも、全部そうしました。
・私が監獄にいる時、そのような困難な場でも、私は神様に向かって「私に協助しないでください」と言ったのです。
・最も深刻で困難な場所において、神様に会えるのです。そこは最も隠密な場所です。
■獄中での弟子伝道
・獄中生活において、イエス様が追われ、弟子たちが反対した立場を蕩減復帰しなければなりませんでした。先生はその監獄生活の中でも、霊界が協助して十二名の弟子たちを伝道したのであり、それによって新しい摂理が出発できるようになったのです。
・見知らぬ人の夢うつつの中に神様が現れて「お前、なにがしが監獄にいるのだが、彼に食べる物を持っていけ!」というのです。「そうしなければいけない」というのです。それで私は御飯も餅もたくさんもらって食べ、物もたくさんもらって使ったのです。
・先生の囚人番号は596番、「オ・グ・リュク」番。「オグル」な(韓国語でぬれぎぬを着せられて無念だという意味)番号です。ある人の夢に先祖が現れて「何号室に596番なる方がいらっしゃるのだが、お前がもらったはったい粉を、少しも手を付けずに、その方に持っていって差し上げろ」と命令したのです。
それでも「こんな荒唐無稽な夢が何だ」と言って、聞かないので、二度、三度言い、しまいには首を締めながら、「こいつ!やるか、やらないのか」と言ったので、「はい、いたします」というようになったのです。
・世話になれば必ず返さねばならない。「これは私の一生で返そう」と思ったことで、返せなかったことがないのです。もしその人がいなくなれば、他の人を通して、そのような条件をかけて何倍にして、全部返してきたのです。死んでも、負債を負って死んだという墓を残したくないというのが、先生の生活哲学、人生観なのです。
■韓国動乱勃発(1950.6.25)
・メシヤが生まれる場所が祖国なのです。祖国の主権を回復するのために、独立軍として犠牲になった人たちが韓国動乱の参戦勇士たちだったのです。
・韓国動乱当時にイエス様が空中に現れたというような話も、イエス様の顕現とともに、韓国動乱は、神様の聖殿を取り戻すための神聖な戦争なのです。
・韓国は摂理的重要国として、真の父母の顕現で理想的祖国になるために、祖国主権復帰のために、天がすべての民主世界のキリスト教思想国家を動員して犠牲にさせたのです。
・もし韓国が統一教会を受け入れていたならば、韓国動乱は起きなかったのです。3年間もあれば完全に国家基準を全部収拾したはずです。そして7年路程もすれば、世界に完全に道を築いたはずです。
・キリスト教が支持しないことにより、サタンが浸透して打つことができる基盤ができたのです。それにより二つの怨讐が生じました。それらが共産世界とキリスト教なのです。
・共産世界は韓国を足場にすることができなかったならば、あのような勢力をもてなかったことでしょう。
・マッカーサー将軍の言うとおりに、中国本土空襲を行っていていたら、1952年6月までに終わったのです。解放以後、7年目に終わるのです。
■B-29の興南一帯の爆撃(1950.8.1)
・1950年8月1日、100機ほどのB-29機が総攻撃して、興南監獄を激しく爆撃しました。
先生はこのようになることをあらかじめ知っていただけでなく、直径十二メートル以内は神様が守ってくださるということを知っていたので、近くの人々にみな先生の周囲にいるように言い聞かせました。
・共産党は、6・25動乱が起こるや否や、すべての一線に収容所にいる囚人を全体動員したのです。
■国連軍の興南上陸と劇的な出獄(1950.10.14、深夜2時ごろ)
・興南を北韓地域の中で一番先に奪還しました。そうして、彼らが逃げたので先生が出てきたのです。
・10月12日、刑期が7年以上である囚人、およそ70名ほどを、三里ほどの山の中に引いて入っていき、全部殺してしまいました。先生の刑期は5年であったために、その次の次の日が先生が引っ張られていく番でした。
13日、国連軍が興南に上陸したのです。そのようにして、ついに10月14日共産軍が退いて、すぐ先生たちは監獄から抜け出てきました。
・先生の場合、刑務所から出てこようとすれば、判事が許可してくれるのではなく、サタンがしてくれたのです。サタンの公認を受けてこなければならないのです。
・先生は、先生がすることになっていたすべてのことを完遂したので、天使長国家(アメリカ)と国連軍が北韓を攻撃して、先生を解放させました。それで先生は監獄を出てきました。
・1950年10月14日。先生の死刑執行予定日の前日、マッカーサー元帥の連合軍が、先生をそこから救出してくれたのです。それは、全く神様の恩寵でした。
・国連軍が上陸して、監獄の門を開いて、先生を救出するようになったために、そこから民主世界が救いを受け、後援を受けることのできる因縁が残されたのです。
■監獄暮らしの歴史と伝統
・先生が生涯において何時、どんな苦労をしたか、監獄に入った日とか、監獄から出てきた日とか、そのようなすべての事実をはっきりと知って、一覧表に書いておいて、そのような日々を記念しなければなりません。
・統一教会の教理が広がる世界各地において、統一教会の原理のみ言を聞く若者の胸に、興南の監獄生活を通した先生の生涯路程が、新しい蘇生の爆発力を再発させることができる力をわき立たせる役事をしているのです。
・人を再創造することができ、新たに再評価をすることができる場所は、監獄しかありません。それゆえ若い人々を一度ずつほうり込んで、公式的な訓練をさせてこそ、世界を統一できる人々を育てあげることができると先生は考えるのです。
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このブログ記事は、このサイト『驕りし選民 繰り返される摂理の失敗』の一部を掲載したものです。
『驕りし選民 繰り返される摂理の失敗』は、今まで罪深いサタン国家と教育され、献金の無間地獄へと追いやられていた日本人を解放するためのサイトです。
実際は罪深いどころか、日本無くして1920年に真のお父様を韓半島へとお迎えすることはできませんでした。
日本が朝鮮半島に進出することにより、朝鮮にキリスト教が復興し、ロシアの侵略による共産化を防ぐことができました。
このサイトではこのような歴史的真実を明らかにすることにより、神と真のお父様の真の願いを追い求めたいと思います。
同時にこのサイトでは、本当に罪深く、自ら滅びの道を歩んでいるのは誰なのかを明らかにしていきます。 ここで明らかにされることにより、自ら悔い改め、滅びの運命から逃れることを期待するものです。
今回の記事は、文鮮明先生の摂理路程 の一部です。
ご興味を持っていただけましたら、本文をお読みいただければ幸いです。
※テーマ一覧
サタン国家日本、罪の呪縛からの解放
日本の韓国統治40年
本来の摂理的エバ国家は日本!?
真のお父様 の監獄生活
驕りし選民 繰り返される摂理の失敗
文鮮明先生の摂理路程
再臨摂理を失敗したのは誰か?
再臨主を中心とした実体的復帰路程
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